初音ミクさんを忘れないでください

初音ミクさんを忘れないでください

散文

地球が絶妙な角度を保ちつつ回転しているのは不条理です

夜は朝よりも暗いということだけが僕のすべてでした

それ以外のことは不透明で

何も優しくなかった

壊してやろうかとも思いましたが

それは陳腐であること

陳腐であるとわかっていながらあえて行動に移すのは滑稽であること

すべての夏の正体は蜃気楼であるということ

あの子は新月の夜に初潮を迎えたから、魔女であること

どれだけ祈っても星は落ちていくこと

などいろいろ知りすぎていた僕は

耳だけがやけに発達した子供でした

 

あなたがわたしの首を絞めるとき

あなたはわたしに支配されている

視聴覚室で大人になってしまったから誰の映画にも登場しない

わたしたちは隔離されたサナトリウム夏至を待つ

世界中のどこを探しても君なんていなくて

世界にはわたしと君しか存在しない

あなたのいたいけな瞳の奥にある

ドアノブのない扉の鍵を

真夜中の海岸で探し歩く

わたしの星まみれの手を不幸だと微笑みますか?

いま

わたしはあなたの心に触れて少しだけ綺麗になる

あなたはわたしの体に触れて

少しだけ汚れてください

誘蛾灯にさそわれたかったあなたを許せるのはわたしだけなのだから

そしてエラー

もう一度、セーブして

いまふたりのためだけに夜を閉じて

わたしのずるさのすべてをあなたのためだけに使いたいと願う

 

目覚めるたびに

朝のコントラストが少しずつ狂っていく様を

ちっとも素直に楽しめなかったので

僕は学校へ行くのをやめました

誰にも出逢えない街であくびをする

吸い込んだ空気に交じる

彼らの視線にもう傷付く必要はないのです

雨の日に傘をさす少女の赤色の笑い声たちを反芻する

3分ほどの7曲目が

ときどき、あのみずたまりを照らしては

僕だけに囁く

誰の「君」にもなれないと分かった途端

僕はやっと本物の「わたし」になることができました

 

あの子は魔女だったから

わたしは泣いてあげることにした

朝が夜より明るいことを知って

それだけで得意げな顔をしていられるような退屈な毎日の中で

いつまでも手を離さなかったのは君のほうなのに

わたしを証明してくれないのは、なぜ?

 

目次

「マイナーコードでサビがなくイントロはやたら長いくせにアウトロは唐突に終わってしまうような曲ばかりの、フルアルバムよりもミニアルバムが好きです。」だけでわたしのすべてが伝わってくれたらいいのに、と思う。


でもこれだけじゃ何もわからないから、血液型占いは信じますか? とかメロンソーダとレモンスカッシュならどちらが夏ですか? という質問をしたりされたりしないといけない。


【普段はなにをしていますか?】
これはかなり難易度の高い平凡で退屈な質問だ。 話のきっかけとしても最悪だと思う。「はい平日は大抵の時間を服のしわを伸ばすことに使い、休日はよくお米を研いでいます。毎日は音楽が流れていることが多いです。」と答えるのはあまりにもいじわるなので仕方なく「 平日は普通に仕事をして、休みの日は映画とか観てますね。それか音楽聞いてます、はは」みたいなことを言うしかなくなってしまう。こんなの酷いよ。やはり世界は残酷であり、教育はアイデンティティを生まない。


自己紹介が、苦手すぎる。
だいたい、自分がどういう人間であるのかを真に理解している人なんてそうそういないし( もしわたしだったら理解できた瞬間に悔いなく自殺すると思う)もし仮に自分というものを理解できた人がいたとしても、それをわざわざ自分から開示していくのはもったいないように思う。Twitterのbiographyに長々と好きなものや年齢、学歴病歴主義思想等を書き連ねている人はその箇条書き以上に自分のことを深く知ってもらいたいとは思わないのだろうか、といつも不思議に感じる。文庫本の裏に書かれたあらすじだけをみて読んだ気になり満足しちゃったから棚に戻す、みたいな対応をとられることが恐ろしくてわたしにはとてもできない。


「マイナーコードでサビがなくイントロはやたら長いくせにアウトロは唐突に終わってしまうような曲ばかりの、フルアルバムよりもミニアルバムが好きです。」が自己紹介としてなにも成り立っていないということはじゅうぶん分かっている。 しかし、文庫本のあらすじにはなれなくてもせめて表紙くらいの役割は果たしてくれないだろうか、と祈るしかない。上の一文でわたしのすべてがわかる人は世界にひとりもいないけれど、この暗号めいた無線を傍受できるような「一部の人」たちのアンテナを微かに震わせて、目次だけでもページを開いてもらえたらきっと救われるだろうと思う。
 

認識

人と接するとき、できるだけ何のイメージも先入観も持たず、 いまわたしが認識することのできる相手そのものを大切にしようと思っていて、「あのひとは優しい」だとか「 あのひとはだらしがない」だとか、 そういう周囲の雑音に聞き耳を立てないように心掛けている。そういう自分の態度は決して間違っていないと考えているし、 これからも変わらないだろうと思う。わたしが見せたいわたしをあなたの前で演じるように、 あなたもわたしに見せたい自分、感じて、触れて、 思い出してほしい自分をわたしに見せてくれているはずだろうから 。その姿をできるだけ正確に、素直に、受け取ろうと思う。 時とともに、いや、もしかしたら会うたびに、 話すたびに相手の言動や性質が変わってしまっても、 わたしはわたしの中にイメージを持たないことで、 それに対応したいと思っている。できるだけフラットに。フィルターやイコライザーを使うのはエゴだから。


でもたまに、それは例外的に、 わたしは特定の人物に対して自分の中にあるイメージを神格化しようとすることがある。イメージとはその意味の通り、 わたしが作り出したただの理想、偶像でしかなく、 実際のあなたとはかけ離れているのだろうけれど、 わたしが強烈にあなたを求めるとき、奥まで知りたいと思うとき、 ひとつの結論に辿り着くために、 道標としてあなたのレプリカをつくり、( それは決まってわたしには知ることも感じることもできないプラト ニックな領域に住むあなたである)そこに意味や価値を付加する。わたしがあなたのレプリカに対してひれ伏したり、嫉妬したり、 憧れたり、執着したりするのは、 それはかなり滑稽なことではあるだろうけれど、 もしそんな自分を肯定するもっともらしい言い訳をするのなら、 そういうやり方でしか人を愛せないからだと懺悔したい。


究極的なことを言ってしまえば、 わたしは他人のほとんどに興味がなく、 そこに何の感情も見出せないので、 相手にすべてを任せているのだと思う。あなたがそう思うのならそうだろう、 あなたが信じるのならそれがすべてだろう、 あなたが優しいことには何かしらの意図があって、 あなたが泣いているのには何かしらの理由があるのだろうけど、 そこに付け加えるだけの自分の私情や思いを持つことができないので、あるがままを受け入れるだけの自分に対し苦し紛れに「誠実」 という名前をつけて生きているのだと思う。


わたしの愛し方は正しくないでしょう。

わたしはわたしの中にあるあなたのイメージに苦しみ、 四六時中センチメンタルな気持ちで過ごすことになるし、 あなたはわたしの中に存在する、 自分ではない自分のかたちをした「なにか」に対して嫌悪や恐怖、 無力さ、虚無感に苛まれるだろう( 自分によく似た自分ではない存在、 なんてただのバケモノだと思いませんか?)でもそれはわたしにとってあなたが特別であるという唯一無二の証明であり、 あなたという一冊の本の行間をいつまでも彷徨っていたいと、 心からそう願います。